
滿田俊彦さん
2018-12-18
今回ご協力いただきましたのは、東京音楽大学大学院鍵盤楽器研究領域(伴奏)1年に在学中の滿田俊彦さんです。
明るく溌溂とした性格が魅力の滿田さん。筆者はインタビュー中も笑わされっぱなしでした!
それゆえ、今回はいつもよりカジュアルに合格体験記を紹介したいと思います!
滿田さんは親しみやすい人柄ながら、とても頭脳明晰で、さらに音楽に熱い情熱を持っています。
そんな彼の経歴を伺うと、幼児期の早期教育をきっかけとしないピアノのキャリアや、ピアニストの生命線ともいえる腕が動かずに苦しい時代があったことをお話ししてくれました。
滿田は千葉県市川市の出身なんだね。最初についたピアノの先生は地元の先生だったの?
そう、近所のピアノ教室に通っていたよ。
ピアノを習い始めたのは、小学5年生の9月だった。
えっ!10歳ってことだよね?それって周りの音大生に比べると、かなり遅めだよね?
そう。音大には色んなバックグラウンドの人がいるけれど、うちは全然音楽一家とかではなくて。
ピアノに関しては姉が少し習っていたから、家に電子ピアノが置いてある程度だったよ。
いとこのお姉ちゃんの家にはアップライトピアノが置いてあって、昔の俺はその家に遊びに行ったときによくピアノを弾いていたみたい。
俺は小さい頃から音楽が好きだったらしくて。
幼稚園の帰りの会でお歌の時間があったんだけど、勝手にアンコールしてみんなを帰さなかったんだって(笑)
そんなエピソードもあるくらい、音楽は小さい頃からずっと好きだった。
でも俺は何か新しいことを始めるのが得意じゃなくて。
ピアノを習い始める直接のきっかけは、小学校の合唱部に入ったことかもしれない。
歌うことも楽しんでいたけれど、ピアノに興味があったんだ。
ピアノを弾いてる子の横にずっと引っ付いて、ずっと弾いているのを見ていたよ。
そして小学5年生の5月に、合唱部の男子の先輩にお呼ばれして、ピアノの発表会を観に行ったの。
そこで先輩がゲーム音楽を弾いていて、何よりすっごい楽しそうに演奏していたんだ。
その姿を見てやっぱり自分もピアノを弾きたいと思って、一大決心して、親にピアノを習わせてほしいってお願いした。
さっきも言ったように自分から何かを始めたいっていうタイプじゃなかったから、俺にとっては大きな人生の転機だったな。
その後の9月に地元のピアノ教室に通い始めた。
その頃のレッスンは楽しく弾くことが中心だったよ。バイエルが終わってツェルニーは…あまり、ちゃんとやらなかった。普通はお稽古事として進めるには練習曲をやっていくと思うんだけど。
それでも中一になる頃にはベートーヴェンの悲愴とかを弾いていたな。
確かにオーソドックスな進め方ではないかもしれないね。先生も何か指導の意図があったのかな?
どうだろう…。とにかく楽しく弾いてたから、気持ちに進度を合わせてくれたのかな。
所謂エチュードやソナチネもやっていないけど、とにかく楽しいと思いながらピアノを弾いた。
今でも演奏の時に楽しいって気持ちが先行するのは、この先生のおかげだと思う。
こうして小学校を卒業する頃には、卒業文集にピアニストになりたいって書いていたよ。
そうなんだ!ピアニストになることは小さい頃からの夢だったんだね。
でもね、中学校で一度ピアノを辞めちゃったの。高校受験に専念しようと思って。
というのも、中学進学に際してで塾に入ったらね、思いのほか、出来が、よろしかった!(笑)
自分が思っていたより、勉強が得意だったんだ。
最初は個別指導の塾に入ったんだけど、成績には親も全然期待してなくて。
なのに模試を受けたら全国4位だったの(笑)
え~!すごく優秀だね。
そうしてグループレッスンの塾に…
集団指導ね!(笑)
(笑)ワード選びに音大生感が出ちゃった…。
集団指導の塾に行って、中3の最後には数万人単位の塾全体で3位とか、成績が取れるようになって。
音楽で食べていくのは厳しいことだし、勉強を頑張ろうと思って、受験に専念した。
その結果学芸大附属(東京学芸大学附属高等学校)に進学したの。
進学校として大変有名な学校だね。市川から通うとなると遠かったんじゃない?
そうそう、自宅から一時間半から二時間位。
でも栃木埼玉神奈川千葉…色々なところから生徒が来ていたよ。
高校生活の3年間はすごく刺激的だった。
周りは1言ったら10理解してくれるような人ばかりで、知的な会話ができて。
でもやっぱりピアノが諦めきれなかった。
受験のために辞めちゃったけど、好きで。学校のみんなは東大を目指して頑張っていくんだけど、じゃあ自分が仮に努力して東大に受かったとしてそこから先に何をするのか、死ぬ間際に何を思うのか…そういうことを考えたとき、音楽の道に進まなかったことをすっごい後悔するなって思ったの。
その気持ちを親に話したのは高校1年生の終わりで、それから東京芸大を受験するためにピアノを再び習い始めたんだ。
それから二人の先生に師事した。どちらも小学生の時ついてた先生とは別の方で、一人は地元にいた芸大出身の先生、もう一人は高2の夏についた芸大の先生だったよ。
初めてのレッスンの時に弾いたのはショパンのノクターンのOp.9-2だった。
大好きな曲だったから…今考えると全然弾けてないのだけど。
やっぱり先生の立場からしても、始めた時期とか色々考えたら一般受験を進めてくれると思うんだよね、行ってる高校も高校だし。そんな中、生徒として取ってくれた。その時の演奏で『表現したいという気持ちや、何か他の人にはないものを感じた』って、あとで先生が教えてくれたよ。
こうしてやっと受験生になることができたわけだけど…大変だったな。
ツェルニーすらまともにやっていないのに、入試ではショパンのエチュードを弾かなきゃいけなくて。指は回らないし、フニャフニャだし。先生も頭を抱えていたと思うし、毎週怒鳴られてたよ。今となっては先生の親心も分かるんだけど、当時はトラウマになるくらい怖かった(笑)
具体的にはショパンのエチュードのOp.10-4をいきなり弾き始めて。そんなの、最初の“ソファミレド”も弾けるわけないじゃん!家のピアノも電子ピアノだし。
あぁ、忘れてた…家のピアノは電子ピアノだったね。
冒頭に話したようにうちの家は音楽をやってる人がいなかったから、“生のピアノで練習できない”事の重大さが分かってなかったんだよね。
ある時、俺がどうしても全然弾けるようにならないから、習ってた二人の先生の間で話し合いになって、この環境が露呈して。そりゃ無理だ!、となって。
それからは地元の先生がピアノを貸してくださったり、市の文化会館のピアノを借りて練習した。
その後も勉強を続けて、高3にはエチュードを一応弾けるようになったの!
でも所詮付け焼き刃で。
芸大を受験したけど結果はダメで、そこから浪人生活が始まった。
なるほど、始めた時期を考えれば物凄い成長速度だけど、受験合格には後一歩足りなかったんだ…。
当時芸大一本で受けた理由は勿論自分が行きたい気持ちと、家庭の経済状況もあって。
それでも両親は俺がピアノをやりたいって気持ちを尊重して、本当に頑張ってやりくりして、応援してくれた。
そして一浪目の春にうちの状況も上向いてきて、たまたま近所に防音の賃貸物件が出来て、そこを借りてピアノも借りて練習できる環境が整ったんだ。
けれど、1日中ずっとピアノを弾いてたら、夏くらいに腕を壊してしまって。
えっ…。環境の問題が解決した時に、弾きにくくなってしまったの?
10分も弾いたら腕がバチバチに痛くなって、全く回らなくなっちゃって。
「これから頑張るぞ」って思ってる時期に、練習したいのにできなくなっちゃって。
当時は自分の身体とか演奏法についても無知で、本を買ったり調べたりしたけど、どうして弾けないのか分からなくて。折角弾けるようになったエチュードも…“ドレミファソラシド”すら弾けなくなっちゃったの。
手が強ばって動かなくて、一回弾けたことができなくなるのが辛くて。
先生も「弾けるようになってきたから頑張ろう」って言ってくださっていたのに、弾けなくなって。やる気がないように思われたかもしれない。
体が強ばってるから、強ばった音しか出なくて、思った音が出なくて。抜けるような、スコーンとした音が出したいのに。頭の中でこういう音が出したいっていうのがあるのに、出なくて。
スケールもアルペジオも弾けない、思った音も出せない、っていういろんな苦が重なっちゃって。
弾きたいものが弾けないし、表現したいこういうことがしたいのに実現できない、実行できないっていうのが続いて、結構、地獄だった。せっかくピアノが弾きたいと思ったのになんでこうなっちゃったんだろう、って思った。
結局二浪してるけど、俺にとってはこの2年間はそういう時期だった。
弾けるようになってきてはまた弾けなくなってを繰り返し続けていたけれど、二浪目の受験の時にはうちの経済状況が安定したのもあって、東京音大を受験することにした。
こうして東京音大のピアノ科に進学したの。
けれど大学に入れたは良かったものの、弾きたいように弾けない状況は、結局学部の3年くらいまで続いたんだ。
ずっとずっと苦しい思いをし続けて、でもある日、急に身体の感覚が掴めた。
それまでより凄く自由に弾ける感覚っていうか…指も回るようになってきて。出したい音が出せるようになってきて。
ある日突然に良くなったの…!?
うん、自分だけがそう思ってるのではなく先生からも変わったと言ってもらえた。
具体的にはショパンの木枯らしのエチュードとかが、突然弾けるようになって。
自由に手が動くということは、自分のやりたい音楽がやれるってことで。
3年からは実技試験もいい成績が取れるようになって、4年の初めには学内演奏会に出させて頂いたり、卒業時にはピアノ科の卒業演奏会も出ることができたんだ。
その他にもいろいろな場所で演奏する機会が増えて、卒業する頃には色々な方に自分の事を知ってもらえるようになった。
先生が卒業時に『学部の途中から突然弾けるようになる人なんてなかなかいない』とか、著名なピアニストの生徒さんの名前も出して、褒めて下さって。
『在学中にこんなに急成長することがあるんだって、希望が持てた』と言ってくださったことが、今も自分の大きな支えになってる。
その後、今年入学した大学院では伴奏科に進学しているよね。その動機は?
理由は二つあって、一つはカリキュラムが魅力的だったこと。
伴奏を生業にしている先生に師事できるというのは中々無いことだなと思ったの。
他にも授業で神奈川フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者の方に習ってる。ピアノの事もしっかり注意してくれながら、みっちり教えてもらっているよ。
二つ目は、卒業後も伴奏助手として大学に残るチャンスがあることかな。
伴奏を専門に勉強する学科は、他の学校にはあまり無いと思うし、師事できる先生も本当に第一線で活躍されてきた方なんだ。
充実した伴奏法のレッスンが受けられるんだね。伴奏科にはどんな生徒が集まるの?
伴奏科の生徒に共通するのは、やっぱりアンサンブルが好きなことだと思う。
人と合わせて、協奏して…そういったことが音楽的にも、人間的にもできる人。学科内の演奏会の運営とかも、揉め事が全然起こらないし。
東京音大の大学院のピアノ科には独奏科もあるけれど、音楽的な違いはあるの?
これは俺の意見だけど、伴奏科であっても聴く人を納得させられるレベルでソロを弾けないといけないと思っているよ。
先生の言葉で印象的だったのは『伴奏科は伴奏のプロフェッショナルになる科じゃなくて、アンサンブル伴奏の勉強を通じていいピアニストになるための学科』であるということ。
伴奏を通じて、音楽の本質的な物を学ばなくてはいけないと思ってる。
実際、学部を優秀な成績で出た人が伴奏科に多く在籍しているし。
なるほど。今年進学してからの活動はどう?
今年のGWに行われた野島稔よこすか・ピアノコンクールに参加した。
このコンクールを通じて、自分が進歩してるんだって感じられたな。
参加の動機は、伴奏科に進学したけれど、大きなホールで自分の力を試したいと思ったから。
一次試験ははエチュードを弾く課題だった。
準備が遅かったのもあって、一次試験だけでも全力で臨みたいと思って、4月の間めちゃめちゃ練習したの。
そうしたら、かなり人数が絞られる難関の一次試験に通ることが出来て。
『卒業のときに先生がかけて下さった言葉は嘘じゃなかったんだな』って思った。先生の言葉を疑ってたわけではないけど、本当に力がついていたんだなと実感できた。
コンクールには名だたる人達が参加していたし、ましてや自分はエチュードやテクニックに自信があるタイプでもなかったから…。
二次試験はダメだったんだけど、その後の講評で、東京音大の学長の野島稔先生が『レッスンに来ていいよ』と声をかけて下さったんだ。こんな幸せないな、って。
世界的ピアニストでいらっしゃる野島先生にレッスンを受けているんだね!
ありがたいことに…レッスンで聴かせて頂く先生の演奏は物凄く美しいんだよ。
今回の経験を経て、腐らずにがんばっていれば、日の目が見られるっていうか、報われるんだなって思った。
どんなポジションから始まったとしても、自分で考えて努力をしていけば、それが実になる瞬間っていうのは必ずあるんだなって。
そしてそれを見ていてくれる人もいるんだなって、感じることができたよ。
例えば、ホールで4-5年前に演奏したことを覚えて下さってた方がいたり、学内で自分の演奏を認めて下さる先生が何人もいて下さって。そういう事が自分の原動力につながってる。もう嬉しくて!
まだまだ自分が未熟なのは勿論なんだけど、今までの苦しい経験も、前より音楽として昇華できるようになったように思う。ずっと前からキャリアのある友達とかと比べてコンプレックスを感じることもあるけれど、腐らずに頑張って、何とか前向いて、自分のやりたいことを頑張れば、誰かに伝わるんだって。
演奏することの目的地って、だれかの心に届くことだと、改めて思うなあ。
はじめたのが遅かったからこそ、楽曲に取り組むときには『何かを表現したい気持ち』が先行している。見方によっては、その事が受験の時に壁になっていたのかもしれないけれど…そういう気持ちで音楽を見ると、色々な角度から曲が見えてくるから。
ちょっと話は変わるけど、大学院の修士演奏で伴奏科もソロを弾くんだ。
そこでショパンの《幻想ポロネーズ》を弾きたくて。修士論文もそれで書こうと思ってるんだ。
というのも、幻想ポロネーズは東京音大の学部入試で弾いた曲なんだ。
あの苦しかった時代の、思い出の曲なんだね。泣いちゃいそう…。
ね、俺も泣いちゃいそう(笑)
この曲はショパンの最晩年の曲で、それまでの曲と比べても明らかに異質で、楽曲の構成がえげつない。ショパンの人生色んな事を総括した曲に思えて…。
けれど先に話したように、当時は思ったように弾けなかったの。指は回らないし、音は外すし、音量はでないし、音は綺麗じゃないし。
だから、自分のピリオドとしてけじめをつけたくて弾くんだ。
今なら自分のやりたいことが出来ると思うから。それを聴く人に届けたいと思う。
きっと東京音大での6年間の総まとめのいい演奏になるね。修了演奏の話が出たけど、大学院修了後はどういった活動をしていくの?
まだ悩んでる。大学に残るのもいいなと思っていたけど、もっと先に目を向けて勉強したい気持ちもあって。
コンクールを受けるにしても年齢制限があるし、先生が後押ししてくれるのもあって。
今取り組めば絶対に大きく成長できるし、このチャンスを生かすも殺すも自分次第だなって思ってるよ。
心境としては、40代で脱サラして一念発起してラーメン屋みたいな気持ち!(笑)
例えが!(笑)
スープから研究、ガラから!麺の配合もこだわり!
どっちかうまくいってもスープと麺の相性がね!
うまく絡み合わないとかね!
究極の1杯を目指して!
そう、自分の味覚を信じて!滿田家みたいな。
全然違うインタビューになっちゃったよ!!!!
…でも今回話を聞いて、滿田がどんな思いで音楽をやっているかよく分かった気がする。
ピアノを習い始めたのが遅かったり、受験期は苦しい時を過ごしながらも、それを乗り越えて今があるんだね。そんな人が活躍していくことは、色んな人の希望になると思う。
ありがとう!
幼児期の英才教育がスタンダードのピアノの演奏家でも、そういう人がいるんだ、って思ってもらえたら嬉しい。
俺は学部入学の時点で二浪しているし、悩みやコンプレックスも抱えながら生きているけれど、目指すものを見失わずに努力していれば、必ずそこに行ける日が来るから。
もしこのインタビューを見てくれる人がいるなら、それだけは信じてやっていってほしいな。人のために演奏しようと思っていれば絶対音楽が伝わるから。
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いかがでしたか?
苦しい時期を乗り越えたからこそ、誰よりも明るく、人に優しく、情熱をもって音楽を届けている滿田さん。
『今から音楽を始めても…』とためらう人、自分の理想とのギャップに苦しむ人にこのインタビューが届きますように!
滿田俊彦
10歳よりピアノを始める。東京学芸大学附属高等学校、東京音楽大学卒業。第5回ベーテンピアノコンクール高校生の部第4位、第4回東京国際ピアノコンクール大学生の部審査員賞、第1回六本木国際ピアノコンクール大学・一般の部第3位入賞。第7回野島稔よこすかピアノコンクール第2次予選出場。 大学4年次に成績優秀者による演奏会に、学部卒業時に学内の卒業演奏会にそれぞれ出演。大学院1年次に津堅直弘氏の指揮で学内ブラスと「ラプソディー・イン・ブルー」を共演し、好評を博す。様々な楽器や声楽とのアンサンブルも精力的に行っている。 また、ジャンルを問わず幅広く演奏活動を行なっており、最近ではシンガーソングライターやミュージカルの弾き語りなど、鍵盤を弾くだけでなく歌い出した。
また、現代曲の初演などを手がけることもしばしばある。
これまでにピアノソロを大谷眞実、西川秀人、グジェゴシュ・ニェムチュク、イリヤ・イーティン、野島稔各氏に、伴奏法を山洞智、只野なつき、山田武彦各氏に師事。 現在東京音楽大学大学院鍵盤楽器研究領域(伴奏)1年に在学中。